Niijima Tatsuhiko

新島龍彦

philosophy

本の脇道

本は情報と想いを伝えるために生まれる。
内容を読み手にしっかりと届けることに本の使命がある。
それこそが、本の王道だと思う。

にもかかわらず、その王道に沿って歩いてきたつもりが、気づけばわたしは脇道のようなところを歩いている。
本が本として生まれる時に、記された内容とは別の意味や価値が生まれるのではないかという、
王道からは外れた道だ。

それは、本を手に取る人に本の内容だけではなくて、
本が生まれるでに起こった物語や、本を作ることを決めた人の想いに、
価値を見出してもらいたいと願い本を作っているということ。

本が生まれようとする場所に生じるエネルギーや想いは、
それだけで人の心を潤す、本の内容と同じくらい価値あるものだと、
わたしには思えてならない。
そういった想いとエネルギーに支えられて、本はこの世界に存在している。

本を作る時に自分の想いやエネルギーが見えすぎてしまうのはわたしの未熟だ。
それでも、その脇道はこれからの本の在り方のひとつとなるのではと、
わたしは信じて歩いている。

信じていること。

美しい本と出会えたときの心揺らす感動、
本をつくるなかで生まれるよろこびがあることを、
私の心は知っている。

想いの器

何かと出会ったり、必要が生じて、
本を作りたいと思った時、
その本が意義あるものであって欲しいと願えば願うほど、
そこには大変なエネルギーが必要になります。

企画、編集、デザイン、設計、制作、流通、販売、在庫の管理。
作る本の量と目的によっては考えなくても良いところはありますが、
それぞれが深く関わり合っていて、設計より手前はどんな場合でも等しくエネルギーが必要です。

仕事であれ、趣味であれ、使命であれ、何であれ、
人は本と関わることで、
そのままでは消えていってしまう『想い』というエネルギーを、
本という『器』に注いでいます。

本という『器』と人の『想い』が、
お互いの存在を支え合っています。

利益や利便性とは異なる、本の役割。

どうして本をつくるのですか?

改めて、自分に問うてみる。

「本を作ることを通して、新しい世界と出会い・関わることができるから」
というのが今のわたしの答えです。

私が造本と呼ぶ、物語を紙に宿し本にする力は、
あくまで技術と態度の話です。
その技術を使って物語や人と関わることで、
読むだけでは至れない深さで、
その世界を感じることができる。

まだ見たことのない物語と人への興味が、
本を作ろうとするわたしの原泉にあるのだと思います。

これから

本を、
経済という流れの中から、
すっと、掬いとってみたい。

そうした時に本は、
死んでしまうだろうか。
それとも、
息を吹き返すだろうか。

生活の糧としてでなく、
より良く生きるための糧として、
本を作りたい。

無私の本

いつか作れたらと思うのは、
無私の本。
その本に在るのは物語だけ。
作り手の工夫も、
デザインの意図も、
時には作者すら感じさせない、
物語そのものである本。

それはきっと、
読み手がいつまでも、
心に留めておきたくなるような本。

それはきっと、
例えようもなく、
美しい本。

私にとっての本を作るという営み

物語がそのまま形になったような本を作ること。

形態やジャンルにとらわれるのではなく、内容にどこまで本が寄り添えるかを考え、
絵本やアートブック、句集の特装本や1点物の箱などを、手と少しの機械と道具で制作してきました。
そんなある日、「紙に物語が宿ると本になる」という言葉が不意に頭の中に浮かんできました。

自身の作品を振り返ってみると、そのいずれもが、
いかにして「触れることのできない物語」を「質感そのものである紙」に宿らせるかの挑戦であったようです。
そうして生まれた本は、時として一般的な本の形とは異なることもありましたが、
その道にこそ、まだ誰も知らない、見たことのない本の可能性があると今は信じています。